『波多野くん!』
…あの時、確かに青島の声が聞こえた気がした。
必死な、だけどとても心細そうな声。
幼いころ、澄に背中を呼ばれた時のような。
だから、憲二は足を止め、来た距離を引き返して青島に言ったのだ。
「握手しよう」と。
そして、青島は…。
ロングディスタンスコール
(1)なんなんだよ、こりゃ…!
作・みゃあ
畳にあぐらをかいて、憲二はぽかっと口を開けたまま、中空をぼんやりと眺めていた。
別にそこに何があるわけでもない。
憲二の脳裏にあるのは、岡山駅で見た青島のつむじと、駆け去る彼女の背中だった。
ギュッ。
あのときの柔らかな感触を思い出して、憲二は右手を見た。
意味もなく、握ったり、開いたりしてみる。
(何だったんだ、あれは…)
あの時…。
握手しようと差し出した手を、青島は両手で胸元に抱き締めた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
気が付くと、青島のつむじを見ていた。
「あ、青島?」
「はっ…! さ、さよならっ」
思わず口をついた疑問符に、青島は背中を向けて駆け去ってしまった。
最後まで、顔は見えなかった。
ただ、右手に残った青島の両手の感触に戸惑いながら、彼女が消えた階段を見送ることしかできなかった。
しばらくその場でぼう然としていた憲二は、当初乗る予定だった新幹線に乗り損ね、昨夜遅くに東京の自宅に戻った。
「何だったんだ、あれは…」
もう一度、今度は声に出して憲二は呟いた。
いくらニブい憲二とはいえ、あの行動が青島の好意から出たものだということはわかる。
だが、こういったことに慣れていない憲二には、戸惑いの方が大きかった。
しかも、相手はあの青島である。
同期で、水の上では良きライバルで、互いに切磋琢磨し尊敬できる友人。
青島には、いつも大切なことを気付かされてきたという思いが強い。
顧みれば、大きな転機となる出来事が起こるとき、同じ場所に立っていることが多かったような気がする。
その青島が。
「オレに好意…?」
一瞬、口元が緩みかけた憲二だが、真顔に戻ると畳にごろんと転がった。
あの時、青島はどんな顔をしてたのかな。
どんな気持ちで、オレの手を取ったんだ?
何度、思い返してみても、思い出せるのは青島の綺麗な黒髪の真ん中にあるつむじと、慌ただしく駆け去る小柄な後ろ姿だけだった。
「はぁ…」
憲二は寝返りをうった。
なぜだろう。
無性に青島の顔が見たかった。
そして、話がしたかった。
いま会わなければ、取り返しのつかないことになる。
それは、何の脈絡もない想像、あるいは妄想でしかない。
言うなれば、それは焦燥だった。
強迫観念にも似た疼きが、胸の辺りを這いまわっている。
そして、「会わなければ」は、容易に「会いたい」に変化した。
「くそっ」
憲二は再び、寝返りを打った。
「なんなんだよ、こりゃ…!」
頭をがりがりとかき回してみても、何の解決にもならないのだった。
電話してみようか?
ふと、脳裏をよぎった考えに、体はすぐに反応して上体を起こしていた。
サイドテーブルの携帯電話を手に取って、動きが止まる。
自慢ではないが、青島と電話で話したことなど、数えるほどもない。
確か、2度目のダービーを獲った時に、祝辞をもらったのが最初で最後ではなかろうか。
予想通り、着信履歴はすでに残っていなかった。
がばっと立ち上がると、普段まったく使わない机をがさごそと漁り、選手名簿を掘り出す。
「福岡、福岡…」
福岡支部の欄を探して、ページを繰る手が慌ただしく同じ動きを繰り返す。
「あった!」
青島優子。
その名前はすぐに見つかった。五十音順の名簿には、福岡支部の一番上にその名前が載っていたからだ。
ピッ、ピッ、ポ…。
連絡先の電話番号とにらめっこで、携帯のボタンをプッシュしていた手が、半分くらいでぴたっと止まった。
「…よく考えたら、あいつ鳴門の女子リーグ真っ最中だ」
そのために、岡山まで一緒に帰ってきたんだった。憲二は自分のうかつさにあきれた。
いまさら言うまでもなく、開催中は、いかなる手段による連絡も不可能だ。
「ちっくしょ〜…!」
憲二は畳にひっくり返り、携帯電話を放り出した。
「………」
天井をぼーっと見ていると、青島の顔が浮かんだ。
それは、思わず見とれてしまったいつかの笑顔であり、病院の屋上で平手打ちされた時の怒った顔であり、そして、レースに臨む時の真っ直ぐな横顔だった。
思えば、自分は随分と青島と縁があるような気がする。
『波多野君』
青島はいつもそう呼ぶ。
『波多野君!』
浅黒い肌の中で、黒目がちの大きな瞳が、まっすぐに見つめてくる。
「青島…」
あれは、今まで見たことのない青島だった。
記憶の中のうつむいた青島に向かって、憲二は知らず呼びかけていた。
あの時、何か言いたかったんじゃないのか…?
聞きそびれてしまったその言葉を、いま無性に聞きたかった。
そして、あの時、青島を追いかけなかったことを心底後悔していた。
悶々としたまま、憲二は次の斡旋までの数日を過ごすことになった。
(つづく)