頑張っているヤツだから

作・ロイさん



「さぁ、4号艇波多野、3周2Mを慎重にターンして…今ゴールイン!!今節を制したのは東京の波多野憲二です!これで波多野は今期4勝目、賞金王を目指す艇界の若武者の視界は良好です!!」

「…はぁ〜…」
レースが行われた水面の隅にあるピット裏にあるテレビに映る同期の勇士を思わず溜め息をついて見つめているショートカットにまんべんなく焼けた褐色の肌をした一人の女性がいた。彼女の名前は青島優子。テレビで勝利の喜びからガッツポーズをしている波多野憲二の同期である。彼女も先ほどまで選手としてこの節を戦っていた。選手は最終日の自分のレースが終わってしまえば例え他のレースの最中でも帰宅する事が許されている。しかし、青島は仮に自分の最終日のレースが最初の第1レースであったとしてもできるだけ最終レースまで場内に留まる事にしている。それは他人のレースを見る事で何か自分なりに新たな事を感じる事ができる機会を得たいという気持ちからであるが、時々は同じ節に斡旋を受けた福岡支部の関係者や同期の応援が主になる事もある。そして今日の場合は後者の場合…すなわち同期の中でも洞口雄大と共に艇界のトップを走る波多野の応援の為に残っていた。その波多野が優勝戦を勝ったのだからさぞや喜んでいるだろうと思うのだが、肝心の青島の反応は前述の通り感嘆の方が大きかった。今や若くして艇王榎木裕介に一目置かれる存在である波多野の実力には最早それ以外の反応ができなかったのである。

 そうこうしているうちに波多野が優勝した後の諸行事を終えピットに戻ってきた。行き交う選手に祝福され、会釈をしながら青島の方へ歩いてくる。青島は笑顔で、
「波多野君、優勝おめでとう。」
と、波多野に声を掛ける。
「ああ、青島か。ありがとうな。すまなかったな、昨日は。」
 優勝の喜びよりも先に青島に詫びる波多野の返事に青島は軽く首を横に振った。
「ううん、気にしないで。」
「…そっか、分かった。それじゃ、これから帰る準備するからちょっと待っててくれ。」
「うん、私も準備してくる。」
 波多野は青島と短く言葉を交わすと背を向けて歩いていった。青島はその去り行く背中をじっと見詰めていた。そこからは何か自分が持っていない雰囲気を出している事を青島は本能的に感じていた。同時に別の気持ちにも…
「…あ、そうだ。私も帰る準備をしなくちゃ。」
 ふと我に帰ると青島は女性選手の控え室へと向かった。部屋に入るとほとんどの選手は引き払っていたのか先程部屋を出た時よりも雰囲気が寂しく感じられた。ちなみに今節はG(グレード)の冠が付いていない一般戦である。従って男女・等級に関係無く斡旋を受けている。もっとも競艇は実力の世界なので優勝戦を戦うのはもっぱらA1級の選手達だ。青島はA1級であるが、前日の準優勝戦の最終レースの4号艇(つまり今節の予選順位12位)で出走し、そのレースの2着であった1号艇(予選順位1位)の波多野と途中まで激しい2着争いを争った。結果的にその争いに敗れ、最終的に4着。優勝戦に進む事はできなかった。先ほどの波多野の『すまなかったな、昨日は。』というのはこの事を指していた。
『もっと私に力があれば…』
 内心そう思うのだが気ばかり焦っても仕方が無いというのは当の青島が一番良く分かっていた。そうやって青島はA1級にまで時間を掛けて昇級してきたのだから。それに今日は戦いが終わった日だ。ゆっくりと目先の事をこなして行けばいいと青島は思っている。今日は前検日に波多野と約束していた解散後の食事を楽しむ事が今の楽しみであった。今節は青島と同じグループの選手はおらず(福岡支部は数人いた。)、また同期も斡旋を受けていなかった為に、必然的に波多野と話す事が多かった。その会話の中で交わされた約束だった。

 青島は以前、同期の洞口にプロポーズされていた事がある。結果的にそれを断った。それは洞口が嫌いだったからという単純な理由では決して無く、洞口と自分とのレースの考え方に大きな隔たりがあると感じたからだった。自らの勝利の為には他の全てを犠牲にしても良いという洞口の姿勢には青島はどうしても同調する事ができなかったのだ。もっとも断った理由はそれだけではなく、波多野への想いが日に日に大きくなっていた事も起因していた。幼い子供には優しく接し、そして慕われるレースをする波多野には一種の憧れがあったのかもしれない。その憧れが波多野に惹かれている気持ちの一部であったと自覚したのは青島自身初めて出場したSGレースの総理大臣杯であった。女子選手代表として何が何でも勝たなければならないとある意味意固地になっていた自分の気持ちをほぐしてくれた波多野からのアドバイスによって青島は1レースだけだが、1着を勝ち取った。そのお礼をしようとした時の波多野の笑顔に青島は自分の本当の気持ちに気付く事になったのである。

「お待たせ。」
 競艇場の外で出待ちしているファンの攻勢からようやく逃れた波多野が青島の所にやってきた。最初は場内で落ち合おうとしていた波多野だったが、
「ファンの人達が外で待ってると思うけど、どうするの?」
と言う青島に波多野はうっ、と息を詰まらせてしまった。若手の有望株に最終日のレース後の出待ちのファンはつきものである。特に波多野の様にSGを取る様な選手の場合その数はハンパでは無い。正直それを何事も無く通り過ぎるのは難しいと波多野が思案している所で、
「私が先に出て待ってるからちゃんと応対してあげて。ファンあっての選手でしょ?」
という言葉に波多野は救われたのだった。
「うん、お疲れ様。それじゃあ、どこ行こうか?」
「う〜ん、ここは地元じゃねぇし、正直あんまり斡旋受けた所じゃないからよくわからないな。青島は?」
「え、あ、私も良くはわからないんだ。でも鮎川さんがいい店があるって教えてくれたの。」
 青島は持っていたバッグから鮎川が書いてくれたメモを取り出しながら答えた。そこには鮎川が如何にも鮎川らしい力が感じられない文字と地図が書いてあった。実は青島がレースに出発する前夜に、
『波多野君と同じ斡旋なんだろ?レース後に行ける良いデートスポットを教えてあげよう。』
 などと言うものだから必死に青島は、
『いや、行きませんから!!』
と、否定するも、
『いいから、いいから、照れない。照れない。』
 鮎川は軽く流しながらペンを走らせた。
『だからそんなんじゃ無いんですって!!』
『またまた〜』
 というやりとりから生まれた産物であった。実は紹介してくれた店の他にそのメモには鮎川が無理矢理デートスポットも書き入れていたのだが、その部分は出発した後に青島自ら切り取り自分の財布に入れてしまっていた。流石に先輩の書いた物だったから無碍に捨てる事が青島にはできなかったのだ。そんな事情も知らず波多野は上からそのメモを覗き込んだ。
「鮎川さんが?そっか、じゃあ任せるよ。きっとご当地の店の情報だろうし。俺らだとどうしても全国どこにでもある店に行きそうだしな。」
「ふふ、そうね。それじゃあ、行こう!」
 少し笑いながら青島は右手を挙げてタクシーを呼び寄せた。

「あ〜美味かった〜!流石に鮎川さんご推薦の店だな、満足、満足♪」
 鮎川が教えてくれたのは郊外にある小さな料理屋であった。適当に料理を見繕ってもらったのだが、一品一品味が良くついつい食べ過ぎた波多野はお腹に手を当てながら天井を仰いだ。体重にも気を使わなければいけない競艇選手であるが、彼らも人間であるから時々はハメを外さなくてはやっていられない。
「良かったね、波多野君。波多野君って本当に美味しそうに食べるから私もお腹いっぱい。」
 そんな波多野を見ながら青島も箸を置いた。
「改めて今節優勝おめでとう。」
 少し姿勢を正して青島は言った。そんな青島に波多野も崩していた背中をピンッと張り答える。
「ああ、ありがとう。あんまり走った事の無いレース場だったからどうなるかな?と思ったけど、何とかなって良かったよ。エンジンもそこそこのを引いたからな。」
「準優勝戦では見事に私を差してくれたしね〜」
 少しふざけながら青島は笑った。
「いや、だってあん時はマジでヤバかったんだぜ?青島ってホラ、直線の伸びがいいだろ?それに加えて俺よりも良いエンジンだったからさ。もう必死必死。」
 右手を振りながら波多野も応戦する。
「それでも勝てるんだから、波多野君の整備力も随分上がったんじゃないの?」
 青島の言葉通り、波多野はデビューして左手の大怪我をするまでの間、本栖研修所で配布されていた整備に関する教科書を全く読んでいない程、整備に関してはエンジン部分に手を掛けずにプロペラ中心で行なっていた。それが今では一通りの整備ができるまでに至っている。それは波多野の力が伸びる余地はまだまだある事を意味している。
「う〜ん、確かに前よりはマシになったかな?でもそれ以上に大きい事がある。」
「え?」
 きょとんとした表情を浮かべる青島。
「新しい目標が出来た事。やっぱり目標がでかいと気持ちが違う。」
「新しい目標って…?」
 目を瞬かせながら尋ねる。
「ああ、賞金王に出場してそして榎木さんに勝つ事!!」
 迷いも無く断言する波多野。
「賞金王に勝つ事じゃなくて榎木さんに勝つ事が目標なの?優勝する事じゃなくて?」
「ん?そうだよ。なんで?」
 さも当然だと言わんばかりに波多野が尋ねる。
「何でって…やっぱり一番大きなSGに優勝する事が競艇選手にとって一番だし…」
「あのさ、本栖での卒業レースで俺が言った事覚えてるだろ?」
 唐突に青島の言葉を遮って波多野が身を乗り出す。その勢いに少し後ろに気圧される青島。
「え、ああ、確か『3年以内に日本一のレーサーになります!!』だったよね?」
 少し上を仰いで青島はその時を思いながら言った。
「そう!!考えてみたらそれって究極の目標なんだよな。」
「うん。」
「で、今考えてみるとその目標ってのは何も単純に賞金王に勝つ事を意味している事じゃないんだよな。」
「え?どうして?」
「そうだな…例えば仮に賞金王で榎木さんに勝ったとして…そのまま俺が日本一のレーサー…つまりだ、榎木さんみたく艇王って呼ばれるのかな?」
『波多野君が艇王…』
 青島は思わず波多野が『艇王』と書いてある王冠を被ってわははははと笑っている姿を思い浮かべてしまい、頭を横にブンブンと振り回してその想像を遮った。あまりにも現実離れしすぎた考えだと青島は内心で苦笑いする。
「どうした、頭なんか振って?」
「え、いい、何でもない。余り波多野君が艇王だなんて想像できなかったものだから。」
 青島は波多野の追及に少し素直に返事をした。波多野はそれを深く考え込まず、
「そうなんだよ、それじゃあダメなんだよ。まず年間を通じて榎木さんを超えられる成績を残さないといけない。例え1ランクでもいい、榎木さんの上に行かないと日本一のレーサーとは呼ばれる資格はないんだよな。結局『1レースの結果だけじゃまだまだわからない』とか他の人に言われそうじゃん。それは俺の気持ち的に何か違うんだよな〜」
と、青島が考えた事とは少しずれた事を言った。更に波多野は続ける。
「だから厳密に言えば俺の目標ってのは『榎木さんよりもランキングが上の状態で賞金王に出て、更に本番のレースにも榎木さんに勝つ』という事になるんだよな。勿論、優勝できるに越した事はねぇけどな。」
 一人うんうんと頷きながら納得する波多野。青島はというと、波多野が夢中になって自分の目標を話している時の輝いた眼に無意識に見つめていた。いや正確には見とれていたと言った方が正しいだろう。
『波多野君ってやっぱり洞口君とは違う方向から競艇を見ているんだな。私も…』
「…おい、青島。聞いてるのか?」
「あ、うんうん!!聞いてる、聞いてる!!」
 波多野は青島がボ〜っとしているのを単純に心配して声を掛けたのだが、青島には自分が波多野に投げ掛けていた視線を咎められたのかと思い、必死に頷く。
「ま、7日間缶詰め(前検日と大会6日間)だったから仕方無いけどな。」
 そう言いながら波多野は何気に店内にあった掛け時計に目をやると、
「お、もう9時か…青島、あんまり遅くなりすぎるといけないからそろそろ出るか。」
 心の体勢をまだ整え切れていない青島に声を掛ける。
「ああ、うん。そうだね。」
「さてと…」
 青島の返事と同時に波多野は立ち上がり、
「親父さん、ご馳走様でした!」
と言いながら自分の財布を取り出す。それを見た青島は慌てて自分の財布も出そうとする。そんな青島に波多野は、
「ああ、青島は今日はいいよ。色々聞いてもらったから今日は俺が出すよ。」
と、笑顔で言う。
「でも、そういう訳には…」
 そう言いながら青島は慌てて財布の中にあるお金を取り出そうとする。
「いいって、いいって!!」
 波多野も少し躍起になって青島の行動を止めようとする。
「ダメだよ、それじゃあ私の気持ちも治まらないし…」
 そして青島が財布からお金を出したその時に小さな紙片がテーブルの上に落ちた。青島はそれに気付かない。
「おい、青島、何か落ちたぞ。」
 言うが早いか波多野はその紙片を取って広げる。
「え、あ!それは!!」
 青島が慌てて波多野の手から紙片を奪おうとしたが、少し気付くのが遅かった。
「『波多野君とデートするならここ!!』?どういう事だぁ〜???」
 思わず声を上げてしまう。波多野の目が点に、青島の目は見開いた。そしてすぐに恥ずかしさの余りに顔を伏せ、自分の表情を波多野に見られまいとした。
『何でここで鮎川さんのメモが出てくるの!!』
 青島は福岡にいるであろう鮎川を少しだけ恨んだ。

「毎度ありがとうございました!!」
 店の戸を後ろ手で閉めるその背に店主の明るい声が掛かる。が、青島は正直それに答える程の心の余裕は持ち合わせていなかった。結局ワリカンで代金は支払ったのだが、それ以上に鮎川のメモを波多野に見られた恥ずかしさからそんな事は最早どうでもよくなっていた。視線の先には波多野の姿。波多野も心無しか顔が俯き加減だ。声が掛けづらい…
「…青島。」
 口を開いたのは波多野だった。先程まで夢を語っていた時の様な快活な声では無く、神妙な面持ちの声である事はすぐにわかった。怒っているのだろうか?青島は少し声を震わせ、
「…なに?」
と、短く答える。
「あのさ…せっかくだから行ってみるか?」
 予想だにしなかった波多野の発言に青島は一瞬波多野の言葉の意味を理解できなかった。
「いや、これ書いたの青島じゃなくて鮎川さんなんだろ?デートはともかく、ここって1人で行っても面白くない場所だからこそ教えてくれたんだろ?せっかく教えてくれた場所に行かないというのも…あ、別にデートとかそんなんじゃなくて…その…青島が嫌だったらいいけど…」
 しどろもどろに青島に話す波多野の姿に青島はとりあえず怒っているのではないとわかり、
「うん、波多野君さえよければ。」
と、静かに答える。同時に、
『デートとかそんなんじゃなくて…か…』
 という少し落胆した気持ちも生まれた。それでも波多野ともう少し一緒にいられる…少し嬉しい気持ちもあった。
「行こうか。」
と、青島は笑顔で言った。その時、少し風が吹いて青島の前髪が揺れ、その笑顔が神秘的な様な物に見えた。
『!』
 波多野はその笑顔を見た瞬間に以前青島の笑顔を見た時に感じた感情を無意識に思い出してしまっていた。波多野の先輩である和久井に軽い気持ちで青島の事も好きという事を言ってしまった事があったが、明らかに今の気持ちはそんな軽い物ではない事に波多野は自覚した。
「よ、よし!行くか!!」
 それを悟られまいと波多野は敢えて大きな声で青島の返事を受け返した。

 波多野と青島はそれからタクシーを拾い、その地図に書かれている場所へと向かった。それはこの街で一番高い所にある場所だった。
「よっと、ちょっと時間掛かったけど着いたな。」
 タクシーから波多野が降りたと同時に反対側のドアから降りてきた青島に声を掛けた。
「そうね。私もそう思った。」
 そう言いながら波多野の横に立ち、そして少し視線を上げて波多野の顔を見る。2人の身長の差はそれほど違った物では無い。青島の目の高さが波多野のあごの高さとほぼ同じくらいである。競艇選手にとっては逆に身長が高すぎては体重面で不利になる場合が多いからだ。
「少し歩けば着くみたいだ。行こう。」
「うん。」
 先程の気まずさから少しギクシャクした雰囲気の中で2人は歩き出した。目的地はそれ程遠い所では無く、ほとんど時間が掛かる事無く到着した。あまりに距離が短かったので間を持たす為の会話を必要としなかったくらいだ。
「「わぁ〜」」
 思わず2人とも同じ感嘆の声を挙げた。そこには街の全部が見渡せる景色が広がっていた。時間は22時少し前で、光の絵図がそこにはあった。大都市とも小都市ともつかないこの街の夜景は適度な密度の光の集団を作りだしていた。普段週末の夜になれば他にもここへ訪れる者がいるだろうが、今日は普通の平日の為に波多野と青島の2人しか訪問者はいなかった。
「綺麗な夜景…」
 青島の口から自然に出た言葉がその全てを物語っていた。2人はしばらく無言で眼下にある風景に見とれていた。ふと、波多野は左にいた青島の方をチラリと見やった。青島はその視線に気付かずにまだ視線は下げたままだ。
「………」
 無言でそんな青島を見る波多野。そこにある感情はこれまで経験してきた恋愛経験のいずれにも無かった感情だった。そう、上馬高での恋愛経験も、そして幼馴染との恋愛経験にも…
『何だろうな…この感じ…鮎川さんのメモのせいじゃねぇけど…』
 そこで青島が波多野の視線にようやく気付く。
「どうしたの、波多野君?」
 波多野の顔をマジマジと不思議そうに見ながら言う。
「あ、い、いや何でもねぇ!!(とにかく早く誤魔化さないと!!)と、ところで!!」
「え?」
 余りに必死の波多野の顔に少したじろぐ青島。
「鮎川さんがここを知っている事自体が何か面白くないか?」
「え?…あはは、それを言ったら鮎川先輩に悪いわよ。」
 まんまと波多野の誤魔化しに引っかかる青島。波多野の切り返しの上手さが奏を効した格好だ。
「いや、だってさ、鮎川さんがどうやってこの場所を知っているのかが凄く気にならないか?偶然見つけたってのも何だかおかしいし…」
 まだ少し笑っている青島に言葉を付け加える波多野。
「そうね、でも鮎川さんって結構こういう所見つけるのうまいのよ。」
 少し落ち着いて青島は鮎川のフォローに回る。
「そうなんだ?」
「うん、何て言うのかな〜ほら、私が言うのもあれだけど鮎川さんって観察力が凄いの。いつもはボ〜っとしてる所があるけど、他の人が気付かない事にも気付く事が多いの。」
「ふ〜ん…」
『あの鮎川さんがねぇ〜』と思いながらも相槌を打つ。
「私もそれで何度も助けてもらったの。色々と相談も乗って貰ったりしてるし…」
「そっか…いい先輩なんだな。鮎川さんって。」
 気持ち視線を上に上げながら答える波多野。あの青島が手放しで褒める言葉を述べるのだから鮎川は青島の言葉通り素晴らしい人間なのだろう。
「うん…私の周りには良い人ばかりで本当に競艇選手になれてよかったなと思ってるの。」
「………。」
「それに私って凄く恵まれていると思うの。」
「…恵まれてる?」
 そんなはずは無いと波多野は即座に思った。本栖にまだいた頃、青島は父をガンで亡くしている。人づてにその父が残した借金、そして母親を含めた一家の生活全てを当時18歳の青島が一手に引き受けているのを知っている。両親健在で今も家族と同居している波多野にとっては現実に打ちのめされた事を覚えている。その青島が恵まれているとは?
「うん、良い先輩がいて、良い仲間がいて…。どれも競艇選手にならなかったら手に入らなかったもの。私って恵まれてるなって…」
「…青島…」
 常に前向きに芯の強い青島の言葉に返す言葉が出てこない波多野。
「でもやっぱり恵まれてるのは82期の皆と知り合えた事。」
「…。」
「みっちゃん、三船君、岸本君、勝木君、河野さん…洞口君に…それから…」
 心持ち洞口の名前を出すのを躊躇いながらも続ける。
「波多野君とも知り合えてよかった…」
 青島は胸の前で自分の手を組み両目を閉じて静かに呟いた。
「そ、そんな事ねぇよ!!」
 そんな青島の姿を見てすっかり真っ赤になってしまった波多野は左手をブンブンと振る。その時、波多野の左手に普通の人の手には無いであろう傷跡が青島の目に入った。波多野が長期離脱となり、そこからの脱出と共に刻まれた傷だ。青島自身はある程度落ち着いた時に見舞いに行っていたが、聞いた所によると手術直後はあの温厚な波多野がその痛みから気が狂わんばかりに取り乱していたという。常人では想像できない地獄を体験した人が今、目の前にいる…そう考えると思わずその手を青島は両手で包んでしまっていた。
「あ、青島?」
 その行動に波多野は狼狽する。
「波多野君の左手…」
「あ、ああ。ひどい傷跡だろ?」
 少しだけ顔を緩めて努めて笑う波多野。青島はその言葉に頭を横にフルフルと振った。
「ううん、凄いと思う。傷跡がだけじゃなくて、ここまで来れた波多野君が。」
「俺が?」
 そんな事を言われるとは思わなかった波多野は少し面くらう。
「うん、ほら、前に波多野君が私に言ったよね?『お前が頑張るヤツだから…』って。」
「ああ。」
 以前、波多野と青島は偶然にも碧南訓練所で再会し(青島は純然に訓練しに来たのだが、波多野の方は当時テレビの前で全裸水神祭を決行。見事に1ヶ月の出場停止をくらっている最中だった。)、自身の弱点を波多野の指摘してもらい、そして波多野から『自分には合わないから。』というプロペラを提供して貰った事がある。波多野はその事を思い出しながら相槌を打った。
「でも波多野君の方が私なんかよりもずっとずっと頑張ってるんだよ。波多野君自身は気付かないかもしれないけど波多野君の頑張りって他の誰よりも凄いと思うの。この傷はその証だと思うの。だから…私は波多野君を尊敬してる。」
 傷跡を優しくさすりながら諭す様に言った。
「…青島。」
「私…波多野君にお礼を言いたいの。」
「お礼?」
 波多野は急に『お礼』という言葉を持ち出されて目を点にした。
「うん。ほら、さっきも言ったけど、『お前が頑張るヤツだから…』、って言いながら波多野君からプロペラを譲ってもらったでしょ?」
 波多野の手をゆっくりと離しながら青島は尋ねた。
「あ…ああ、あったな。」
 左手から青島の手の温もりが少しずつ消えていくのを残念に思いながら波多野は答えた。
「あれね、今の私のエースペラのままなんだ。」
「え?だってあれって結構前だろ?」
 意外な青島の発言に本当に驚く波多野。プロペラというのは常に進化し続ける物で、早いと約2ヶ月で最新のプロペラが時代遅れになる事はままある話なのだ。それなのに青島はまだ当時のプロペラをエースペラだと言った。波多野で無くても驚くのは無理無かった。
「それからこの間、私SG出場する前に女子王座を獲った時も波多野君がくれたプロペラなんだよ。」
「え、そ、そうなんだ?」
 立て続けの告白に波多野の目は驚きの余りにすっかり開き切っていた。
「うん、それだけ私にとっては今は変え難い程合っているペラなの。ダメだよね、本当は自分が一番自分にあったプロペラを作れないといけないのに、私は今も波多野君の好意に甘えさせてもらってるのって…」
 自分の額を軽く握ったこぶしで叩きながら、自嘲気味に話す青島に焦る波多野。
「そ、そんな事ねぇよ。俺がそれだけ青島の力になれてるんだったら嬉しいし…」
「うん…だからそのお礼を言いたいの。遅すぎると思うけど、言わないと私の中で整理付かないから…波多野君、本当にありがとう。」
「ああ。気にしないでくれ。でも気持ちは十分に受け取っておくよ。」
「…うん。」

 そしてしばらく2人は言葉を出さなかった。妙な沈黙が2人を包む。上へと吹き上げる夜風が身体に心地良い…少し心が落ち着いたな…そう波多野が思っていると視界の隅で青島が自分の方を見ているのに気付く。その青島の目は真剣な気持ちに満ちていた。そこから逃れてはいけない、そう直感した波多野も身体を横に向け青島を見る。何時の間にか落ち着いていたはずの心臓が世話しなく脈動していた。
「あのね、波多野君。」
 少し頭を下げて青島が沈黙を静かに破った。
「ん?」
 波多野から青島の目は前髪に隠れて見えていない。
「私、父さんが死んじゃって、借金があった事知ってるよね?」
「あ、ああ。」
「この間…その借金は全部返済できたんだ。」
 その言葉を聞いて波多野の顔がぱっと明るくなる。
「そ、そうか!よかったな!よく頑張ったな!!」
「うん、ありがとう。今までは私、頑張ってこれたのは家族のおかげなの。私がやらなきゃという気持ちがあったの。でもようやく家族も苦労させないで済む様になったから今度は私自身の為に頑張りたいの。」
 確実に1つ1つを噛み締める様に青島は言った。これまでの苦労を思い出すかの様に…
「うん、青島だったらできるさ。」
「それで、そういう状況になって初めて私自身の幸せって何なのかなって考える様になっちゃって…」
「自分の幸せ…」
 そういや俺ってそんな事考えた事無かったな、レースの事ばかり考えてしまって…と自分の無計画さに少しだけ心の中で苦笑していると、
「あ、一度考えた事があった。」
「え、何?」
 突如、青島は顔を上げた。しかしその顔は決して明るい物では無いという事はすぐに分かった。その証拠に、
「………」
 少し話しにくそうな顔をしていた。話すかどうか迷っている表情だった。
「あ…話したくなければ話さなくてもいいよ。無理にとは…」
 波多野が青島の事を察し、話を切り替えようとしたが、その気遣いを振り払うかの様に青島は首を横に振り、
「ううん、聞いて、波多野君、私ね、実は前に洞口君にプロポーズされた事があるの。」
「ええ!!」
 波多野は驚きの余りに絶句した。それも当然である。まさか自分のライバルである洞口がその様な事を、ましてや青島に好意を持っていたという事自体が波多野にとって信じられない事だったのである。混乱の余り、
「そ、それで!?」
と、思わず聞いていた。しかし青島は『前に』と言った。もし青島がそれを受けていれば今頃波多野達同期の下にそういった知らせが届くはずであるからその答えは冷静に考えればおのずと、
「断ったの。『ごめんなさい。』って。」
 という答えが導き出せたはずだった。しかし、今の波多野にその判断をするには少し酷な話だった。
「ど、どうして?」
 身を乗り出しすぎて青島の顔を真正面から、そして今までで一番近づきながら波多野は尋ねる。
「簡単に言えばレースの考え方かな…どうしても洞口君の考え方に馴染めなかったの。勝つ為になら何でも許されるというのは私にとっては受け入れがたかったの。」
 そんな波多野の追求に青島は真っ直ぐに、目も背けようともせずに答える。
「そ、そうか。…あ、すまねぇ…」
 ここで安堵の気持ちから青島との距離を急に意識した波多野は少し顔の位置を後ろへ下げる。その最中に、
「それに…」
「ん?」
 青島は言葉を続けようとする。それに波多野は再び青島との距離を気持ち近づける。
「洞口君のプロポーズを受けてから、考えて、迷って…そして自分の正直な心に気付いたの。」
「え?」
 それはどういう事だ?そんな波多野の気持ちが顔に出る。しかし、その答えを考える時間など無く、すぐにその解答を青島の口から飛び出た。その時の青島の顔は傍から見ても真っ赤である事は明らかだった。少し両手の指を絡ませて遊ばせながら口を開く。
「…私の心の中には…」
 青島の口が戸惑いから一瞬止まる。しかし…意を決した。自分の気持ちに嘘は付けない……!!
「は、波多野君がいるの!!」
「え?え?青島、それって…」
 青島の言葉に目を丸くする波多野。
「私は…波多野君の事が好きなの!!ずっと、ずっと前から…!!」
「!!」
 青島の告白が波多野の身体を衝撃と共に突き抜ける。まさか青島が自分にそんな感情を持ち合わせていたとは!以前、少し自分の中で『もしかしたら…』と思いながらも打ち消していた考えがまさか…波多野はこれまでの人生の中で最も心が揺り動かされた瞬間だった。
「研修所に向かう途中で初めて会ってから、ずっと、ずっと…気になってて…今もそうだけど、波多野君の笑顔に何度も勇気付けられていて…今もそれが変わらないの。これが私の本当の気持ち。…ごめん、迷惑だったよね。だって、波多野君には…」
 青島は顔を伏せながら、少し自分の興奮を無理矢理押さえつけようとする様に言葉を終えようとする。そう、波多野には彼女がいる。自分は自分に正直な事を波多野にぶつければ満足………そう思っていた。しかし波多野はその時、青島の勇気ある言葉に自分の気持ちも正直に青島に伝えなければという義務感に襲われていた。
「いや…」
「え?」
 自分の言葉を否定する波多野の言葉。その言葉に青島は息を飲んだ。同時に再び視線を波多野の両眼に向ける。その眼もまた自分の事を真っ直ぐ見つめてくれている。それを青島が感じた瞬間、
「俺もお前の事が好きだ。青島…」
 静かに波多野もまた青島に告白した。
「波多野君…」
 今度は青島の目が大きく見開く。
「俺は今気付いた。本当に遅いかもしれないけど、自分の気持ちがようやく分かった。俺は青島の事が好きだ。これだけははっきりと分かったよ。」
「波多野君!!」
 青島の大きな瞳から一筋の涙が零れ出る。これまで流していた悲しみの涙では決して無い歓喜の涙だった。
「青島、こんな俺でもいいのか?こんな甲斐性も無くて、フラフラばかりしている俺でも?」
 首を少し傾けながら波多野は尋ねる。
「………。」
青島は言葉を出せず、頭を横にただ振るだけだった。
「いいんだな?」
 そんな青島の答えを強引に引き出すかの様な波多野の再確認。
「波多野君…波多野君!!」
 青島はその再確認の答えを波多野の胸に飛び込むという行動で示した。波多野はそれをしっかりと受け止めた。
「「………」」
 そのまま二人は互いの背中に手を回す。波多野の左胸の所に丁度青島の耳が当たっている。波多野の心臓が鼓動している音を聞いていると青島には得体の知れない安堵感に包まれた感覚が生まれていた。それは今は無き父の温かみを思い出させてくれ、波多野も波多野でしっかりと先程まで左手にしか感じなかった青島の体温を感じ取っていた。しばらくすると、青島の頭が自分の身体を離れ、それと同時に青島の澄んだ表情が波多野の眼に映る。その青島の眼が何を語っているか、如何に波多野が鈍感な男であっても気付いた。ゆっくりと波多野は身を屈め、逆に青島は身を伸ばした。お互いに眼を閉じ、余計な感覚を絶った。
「「………」」
 それは2人にとってもっとも永く感じた時間の共有であった。

 そして、どちらかともなく少しだけ身体を離して再びお互いの眼を見詰め合い、波多野は青島の身体を抱き寄せ、青島は再び波多野の胸に身体をうずめた。
「波多野君って…暖かいね…」
 眼を閉じながら青島は呟いた。
「………青島。」
 波多野はそれに対する答えは今、自分の身体に華奢な身体をうずめている唯一無二の愛しい女性の名を呼ぶ事しか無かった。風の音が静かに聞こえる。
『青島って…こんなに小さい身体で一生懸命に頑張っていたんだ…。』
 波多野はそう思うと余計に青島の事が愛しくなり腕に無意識のうちに力を込めてしまった。
「く………苦しいよ、波多野君…」
「あ、す、すまねぇ。」
 静かな青島の抗議に即座にパッと両手を青島から離す波多野。そこでようやく波多野と青島の距離が離れる。そうは言っても先程までの心の距離ほどまでは離れていない。2人とも身動きせずにお互いの事を見つめる。
「波多野君…その…」
 少し頬を朱に染めているのは波多野の気のせいだろうか。
「…ん?」
 その表情に少しどぎまぎしながら答える波多野。
「これから…色々あると思うけど…色々と…よろしくね!」
 青島が言葉を完結するまでに考えた想いを波多野はおぼろげながら感じ取った。しかしそれを振り切ったかの様な青島の笑顔に自分も勇気付けられている事に波多野は気付いた。だから、
「ん、ああ。よ、よろしく。」
と、迷いも無く答えるのだった。
「うん!」


 翌日、波多野は東京へ、青島は福岡へ帰る為に駅へと向かっていた。その道すがら、2人は飽きる事無く色々な話をして歩いていた。話に夢中になりすぎていてお互いに互いの顔を見ながら喋っているので周りの状況を見ていなかったくらいだ。2人を知らない人間が見れば仲の良いカップルにしか見えなかっただろう。そう、2人を知らない人から見れば…
 その時だった。2人は線路脇の道路を歩いていたのだが、その横を走り抜ける電車の中にその人物はいた。
「あれは…」
 その人物は2人の事を知っていた。この人物が2人に新たな展開を与えるのだが、それはまた別の話。



FIN 

 


 

 如何でしたでしょうか?前回の「婚約者ぁ?」に比べ、少しシリアスに、また少し長くしてみました。作った時期は「婚約者ぁ?」よりもずっと早く作っていましたが、色々文章の修正加筆があり、今回の投稿となりました。ちなみに最後いかにも続きそうに書いていますが、一応これで完結です。これが誰かは皆さんでそれぞれご想像頂ければと思います。色々なキャラで当てはめてもらうと楽しめるんじゃないかな?と思います。よろしければご意見・感想などを頂ければ嬉しいです。それでは、また次作で!!

 

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