幕が開く前に |
祐巳は慌てていた。 始業を告げるチャイムが、今にも鳴り終わりそうだ。 お手洗いの鏡の前で、ついぼーっとしてしまった。 理由は分かっている。 階段のところで、「あの方」の姿を見かけたから。 後生大事にしている体育祭の時の写真。その中に、鉛筆ほどの大きさに写っているあの方。 二年松組、小笠原祥子さま。
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緑なす黒髪を翻して、階段を静かに降りていくお姿は、まさに颯爽という言葉が相応しい。 踊り場から見下ろして、祐巳はその他の同級生たちとともに、その後ろ姿に見とれていた。 その時の光景を、ついつい反芻してしまったのが間違いだった。 スカートのプリーツは乱れ、セーラーカラーは翻る。 一年桃組の教室に飛び込むのと、チャイムが鳴り終わるのが同時だった。 「セーフ…!」 言ってから、ゼエゼエと息をつく自分の姿が、かなりみっともないことに気付いて赤面する。 しかし、クラスメイトたちは皆、祐巳が入ってきた前のドアではなく、後ろのドアに注目していた。
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気付けば、始業直前だというのに、教室内はざわざわと騒がしい。 拍子抜けする思いで、祐巳は席についた。 「ねえ、みなさん一体何を騒いでいるの?」 前の席の桂さんに尋ねると、彼女はひどく昂奮した様子で、 「祐巳さんたら、見ていなかったの?つい今しがた、白薔薇さまがやってきて、志摩子さんをさらっていかれたのよ!」 薔薇さまといえば、山百合会の幹部。へぇ…その方が志摩子さんをさらって…って。 「えーっ!!」 祐巳のワンテンポ遅れた驚きの声と同時に、教師が教室に入ってきた。
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「すみません、遅れました」 授業開始から十五分ほど遅れて、彼女は教室に入ってきた。 やわらかな巻き毛にフランス人形のような顔立ち。少しだけ、息が弾んでいる。 クラスメイト全員の視線を受けながら、藤堂志摩子さんは教師に頭を下げると、いつもとまったく変わらぬ様子で自分の席に着いた。 一体、薔薇さまと呼ばれる方と何があったんだろう…。 教科書に目を落としていても、祐巳は後ろの方の志摩子さんのことが気になって、まるで内容が頭に入ってこなかった。
…後に祐巳は、彼女が白薔薇のつぼみになったことを知る。
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忙しい日々の始まる、ほんの一月前のお話。 |
2005.1.29 |